おにぎり握るように愛してくれない?

キラキラした男の子達のこと

ジャニヲタ文芸部第0回~お題『担当』~ に参加してみた

ichigonokimi.hatenablog.jp


ジャニヲタ文芸部というものが発足していたので、こっそり参加してみようと思います。担当という概念について思ったことを以下つらつらと。エッセイのようなものになるのかしら。エッセイとか書いたことないけど(笑)

私自身、気がついた時には遅かった。心を侵食していったのは、傍から見れば何の価値も持たない熱情だった。それまで何故彼と関わりを持たない人生を歩んでこれていたのか、まったくわからなくなるほどに彼が自分の軸の中心に据えられる。担当とはそういう現象の呼称であるのではないだろうか。一瞬でその熱情に覆われてしまうひともいれば、必死に抗ったにも関わらず結果として飲まれてしまうひともいる。
極論、アイドルは何者かによって作られた虚像でしかないと思う。けれど、ジャニーズという世界で生きる彼らは、それにしては生々しく、ひとりの人間として存在し、もがきながら未来を切り開こうと歯を食いしばって生きている。その必死さに、虚像であるはずの存在がありありとそこに存在している気になる。彼らに幸せな未来があることを、心の底から祈ってしまう。祈ったところで虚像であり、その向こうではガッチリと大人の決めたレールが引かれているかもしれないし、そもそも本人にギラギラとした野望があるかどうかすら確かめる術はないというのに。どうかその夢が叶うように、と祈ってしまう。
何百人もいるなかから、雷に打たれたように彼をみつけ、心を奪われ、頼まれたわけでもないのに毎日毎日、彼を想う。雷が落ちた時、ジャニーズアイドルと我々は、一方的な契約を交わすのだ。実際に書面があるとしたら、『乙は甲を担当し、無償で甲を応援する』というような契約書だろうか。捺印するのは、我々だけである。一方の捺印しかない契約書は、意味を成さないように思えて案外自分の枷になる。人によっては担当と交わした契約を破棄する時も訪れるからだ。永遠かと思われた契約が終わる時も一方的である。担当が芸能界からいなくなる場合を除いて、我々側から契約の破棄を勝手に宣言するのだ。いわゆる担降りである。一方的な契約を新たな担当と結ぶひともいれば、この無意味なループから抜け出していくひともいる。抜け出しても、1度でも担当と契約を結んだ経験がある場合、この一方的なはずなのに幸せを感じる関係が恋しくなって戻ってくるひともいる。
ジャニーズアイドルとジャニヲタの関係性は『担当』という言葉に現れている、と思っている。
自分を知り得ない虚像相手に、心を砕いてああでもないこうでもない、あれがいい、こうしてくれたらいい、と思案する様は一般的に見れば狂気とも取れる。ファンという語源はfanatic(狂信者)であるとされる。しかし、ジャニーズ界隈ではファンという言葉はあまり聞かない。その代わりに担当という言葉が存在しているが、狂信者という語源を持つ『ファン』よりも、『担当』という言葉の方がよほど狂気的であると思うし、呪縛のようなイメージすら抱かせる。『担当』という呪縛。心を囚われて、動けなくて。でも、これほどまでに甘美な呪縛がほかにあるだろうか。この幸せな呪いを解く魔法があったとしても、今のところ私には必要ない。というよりまだここにいたい。楽しすぎて目を覚ましたくない。担当と交わした契約書を胸に、今日もまた担当の写真を眺めている。